武蔵野の美を凝縮した「野の花マット」(野草の基本種はアゼターフと同じだが、ススキなどのイネ科を含まない)
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である」 「武蔵野には決して禿山はない。一面の平原のようで、むしろ高台の所々が低く窪んで小さな谷をなしている。この谷の底は大概水田である。高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑はすなわち野である」 「野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、それが実に武蔵野に1種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活ある」 (国木田独歩「武蔵野」 明治34年)
国木田独歩が描写した武蔵野の林は、2次林で、その多くは人工林であった。
武蔵野台地に位置する三富地区(現在の三芳町と川越市の一部)は、川越藩の領地で、柳沢吉保の時に、新田開発を行った。
三富の開発は、道路を中心として区画された短冊状の敷地(約5ha)を配分するというように、整然とした耕地整理のもとに行われた。 1軒分の屋敷割りは、道路に面した表側を屋敷地として、その次に耕地を、一番奥を雑木林とした。開拓の農民には、3本づつナラの苗木が配布されたという(「武蔵野の歴史」www.asahi-net)
屋敷林には、竹・ケヤキ・杉・ヒノキ・シラカシなどが、防風林として植栽されたが、これらの樹木は農具・運搬具としての竹の利用、ケヤキなどの建築材、シラカシのドングリなどの救荒食など、実用性があるものが選択された。
多くの武蔵野は、新規開拓された三富地区のように整然と区画されたものではなく、国木田独歩が描写するように、屋敷、林、畑、野がモザイクのように混在していたものと考えられる。雑木林は、既存の二次林を木炭材として有用なクヌギ・コナラなどを選択して育成する場合もあるが、三富地区のように、新たに植林して林を作り場合も多かったものと推定される。
林野は、当時の農業にとって重要である。 宮崎安貞『農業全書』(元禄十年、1697)は、草肥(くさごえ)、苗肥(なえごえ)、灰肥(はいごえ)、泥肥(どろごえ)を、4大肥料としている。草肥は山野の若い柴(低木類)や草を、積み重ねて腐らしたり、牛馬に敷かせたりしたもの。苗肥はマメ科植物、効用は一番だが、資源としては緑肥にかなわない。灰肥は、草木を焼却した灰で、有機物の植物が無機化するので、即効性がある。泥肥は、池の底の肥えた泥で、灰などとまぜて使用する。
雑木林の落ち葉堆肥は、優良な微生物を多く含むので、固い土に鋤き込むと水はけが良く酸素も豊富なフカフカの土になるように、土壌改良に最適で、他の肥料と一緒に施肥すると効果が大きい。
武蔵野の林野は、草1本枝葉一枚まで、人びとの生活にとって有用であった。林では、冬暖房用の薪や木炭材が、20〜30年の周期というルールを守って伐採され、林を更新した。春にはタラの芽などの若芽が食用となり、晩秋は落ち葉を集めて堆肥を作る。
野は、山菜が採れ、ススキは屋根材として利用され、農の貴重な動力であった牛馬の餌場であり、草肥や灰肥の供給源として、十分に活用された。
江戸時代の農業は、自然と共生した。草肥や牛馬の飼い葉を確保するためには、田畑面積の10倍の山野が必要であったという試算がある(水元邦彦『徳川の国家デザイン』小学館日本の歴史p249)。
また武蔵野の林野も、20〜30年に一度の伐採による萌芽更新や年1回以上の草刈、あるいは牛馬による草喰いによって、二次林や野原が維持されてきた。