江戸の人口は100万で、当時としては世界屈指の大都市であったが、自然と共生し、独自の庭園文化が花開いたという点で、まさに環境文化都市であった。
江戸の緑被率は、約40%であったという試算がある(『江戸東京学事典』三省堂)。江戸の緑地としては、崖(ハケ)の斜面林や斜面草地と大名屋敷などの庭園があり、また武蔵野から引かれた上水道が、それぞれの緑地をネットワークして、環境効果を高めていた。
「江戸市中でさえも、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよくしげった公園とかがあって、目を楽しませてくれる」(オール・コック「大君の都」1859〜62年)。
左:小石川後楽園の菖蒲田、右:山里の茶屋をイメージした「丸屋」
江戸の庭園については、進士五十八先生の先駆的研究がある(『日本庭園の特質』)。江戸の大名庭園は、移動とともに場面が変化する「回遊式庭園」である。機能としては、①社交・外交・集会などの政治施設であったり、②鴨猟、花園、菜園、薬園などのレクレーション施設であったりと、鑑賞だけでなく、多面的に利用されている。
私は、江戸の庭園を環境文化という観点で見た場合、以下の要素を指摘できると思う。1)自然や農の再現、2)江戸と地方の文化交流(参勤交代により江戸の庭園文化が地方に波及)、3)年中行事の確立(花見と紅葉狩)、4)園芸文化(地方の珍草奇木が全国から集まり、江戸は見本市)、5)植木・花卉産業の育成(豊島区駒込、巣鴨周辺が一大産地)。
左:千川上水を利用した六義園、右:山里をイメージした「楓の茶屋」
これらの要素のうち、自然や農の再現について述べてみたい。
日本と同じく古い歴史をもつイスラムの庭園は、建物に囲まれた方形の中庭に、方形の池があり、その周囲に草花な植栽されている。この庭園はイスラムの現世を超越した理想的な世界を描写したものと考えられ、方形や直線でデザインされている。
これに対して日本の造園は、飛鳥時代こそ、朝鮮半島からの渡来文化の影響を受けて、方形池がつくられるが、奈良時代以降は自然の風景を取り入れて、曲線を用いたデザインが伝統的に継承される。
自然をモチーフとしながらも、茶庭や枯山水式など、時代ごとの庭園形式が成立する。江戸の回遊式庭園は、芝生広場などの自然をデフォルメした空間や名所の縮景などの場面を回遊にしたがって変化させ、さらには動線のポイントには稀岩を配置するというように、造形的な空間である。しかし、江戸の代表的な庭園とされる水戸藩の小石川後楽園や老中柳沢吉保の六義園においては、山里や田園風景を再現した空間があり、当時の支配者層においてもこれらの風景は心を癒すものであったと考えられる。
左:修学院離宮に取り込まれた田園、右:桂離宮の茶室より望む田園
庭園の中に、田園風景を取り入れることは、江戸時代初期の修学院離宮や桂離宮にその萌芽が認められ、以後江戸の大名庭園に継承された。現代においても、造形的デザインと自然、あるいは田園風景の調和ないし取り入れは、人間性の回復という点で、再評価されるべきであろう。