武蔵野から引かれた江戸の水道
武蔵野の美を凝縮した「野の花マット」(左080622、右070913撮影)
江戸庶民にとって、武蔵野の最大の恩恵は水である。江戸の下町は埋立地であるため、井戸を掘っても塩分が多く、飲料に適さなかった。
家康は入国当初から武蔵野から水を導水を計画しており、内藤昌『江戸と江戸城』などを参考としながら、以下にまとめてみよう。
江戸時代の宿場町を伝える大内宿(福島県下郷町)、水路では野菜を洗ったり、果物や飲み物を冷やしたりする。
江戸時代初期の上水道計画は、まずは当時平河と呼ばれた現在の神田川を利用する「神田上水」の整備から行われた。平河(神田川)は井の頭池を源泉とし、さらに支流に善福寺川と妙正寺川を持つので、水量が豊富である。この流れを、目白台(椿山荘の辺り)・小日向台の麓を沿わせて、水戸藩の後楽園の中を流し、水道橋近くで木樋で平河を渡した。ここから、暗渠として、神田、日本橋、京橋の一部に給水した。
鍋や野菜を洗ったりして、今も生活と結びついている水路(福島県南会津町)
江戸城下町の拡大に伴って飲料水が不足してきたために、幕府は多摩川から導水する上水路を開削する「玉川上水」を計画した。
老中松平伊豆守信綱(川越藩主)の下、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請け負ったとされるが、詳細は不明である。
承応二年(1653)年4月に工事を開始、翌三年より江戸市中の通水が開始された。羽村で多摩川から取水し、四谷大木戸までの43kmは開渠で、四谷水番所からは木樋・石樋による暗渠とした。上水道は3分され、1つは江戸城、2つは麹町一帯、3つ目は四谷伝馬町から虎ノ門・芝・築地方面に給水された。
万治三年(1660)、明暦の大火(1657)後の江戸城下町再興に伴って、青山上水が玉川上水より分水され、青山・麻布に給水した。 寛文四年(1664)には三田上水が玉川上水より分水されて、代々木・三田・目黒・白金・大崎に給水された。
寛文十年(1670)、玉川上水か拡張されて、両岸に桜が植樹された。以後玉川上水は桜の名所となり、広重「名所江戸百景」にも描かれている。
さて、玉川上水は上水道を目的にしたものであるが、開削を指揮した松平伊豆守は、領内の野火止(埼玉県新座市)への分水が許されたので、「野火止用水」を開削して、大規模な新田開発を行った。
玉川上水は、小平市までは現在も細々ではあるが上水道として機能しているものの、それから都心にかけては水が枯渇した状態となっていた。東京都では、1986年以降「清流復活事業」として玉川上水の枯渇域に、高度処理した下水を放流して、流れを復活させている。
また羽村取水口から四谷大木戸までの、開渠として残る30.4kmが国の史跡に指定された。大都市江戸の用水供給施設として、また武蔵野台地における近世灌漑用水として貴重な土木遺産である、というのが指定の理由である。
「茶屋の横を流れる溝の水は多分、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、小鳥が来て翼をひたし、喉を潤おすのを待っているらしい。しかし婆さんはなんとも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗うようだった」(国木田独歩 「武蔵野」)
東京都内を人間らしい街に環境改善するためにも、玉川上水の復活は重要である。