武蔵野と江戸の境
武蔵野の美を凝縮した「野の花マット」(左060817、右060913撮影)
「武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた」「斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々した菜畠」
上の文章は、田山花袋が、現在のNHK放送センターの筋向いにあった国木田独歩の家を訪れた際に、渋谷周辺を描写したものである。林、野(斜草地)、畠という武蔵野の要素が的確に描かれている。
六本木ヒルズから渋谷方面の展望、富士山がかすかに遠望、クリックしてアップでご覧ください。
天正十八年(1590)、徳川家康は武蔵野台地にある江戸城に入ると間もなく、江戸城下の街づくりを開始した。街づくりのの基礎になったのが日本橋を基点とした五街道の整備である。
3代家光の時代に完成した江戸城下町は、外堀の内側であった。ところが、明暦三年(1657)の大火によって、江戸城本丸はじめ城下の6割が焼失した。大火後は、延焼を防ぐために、火除地(緑地帯)の新設、武家屋敷や寺社の移転などが実施されたために、江戸城下町は外堀の外側まで拡大した。
拡大江戸城下町の範囲は、五街道の基点である日本橋から、二里(8km)から二里半(10キロ)の距離である。
品川宿(東海道、日本橋から8km) 千住宿(日光街道・奥州街道、日本橋から8.8km) 板橋宿(中山道、日本橋から10km) 内藤新宿(甲州街道、日本橋から8km)
日本橋から街道ごとの玄関口までの距離は、江戸庶民が徒歩で十分に日帰りできる距離であり、江戸の外側を囲む武蔵野は江戸庶民にとって身近な存在であった。
江戸の四季といえば、春は上野の桜、夏は御茶ノ水の蛍、秋は武蔵野の月、冬は日暮里の雪が有名で、享保(8代吉宗)以降は、武蔵野の小金井の桜も名所となった。