edo-31.jpgedo-41.jpg葛西からディズニーランドを望む

天正十八年(1590)、徳川家康が江戸城に入ります。天下人はいずれも水陸交通の要所に城下町を築きました。信長の安土城下は琵琶湖の水運の拠点に京都と東国を結ぶ街道を引き込みました。秀吉の大阪城下は京街道と熊野街道が交差して、しかも淀川の水運の便があるところに立地します。江戸は中世以来、関東平野の交通の要衝であり、しかも隅田川と江戸湾の河口港湾の「江戸湊」があります。

したがって家康による江戸城下の建設は、当初より海洋都市としての性格も持っていました。

家康以後三代家光まで、城の整備拡張と城下町の建設が行われます。城下町の建設は、江戸湾の埋め立てが大きな事業でした。

隅田川河口域の原地形は、「日比谷入江」が現在の霞ヶ関地区まで入り込み、京橋・有楽町が岬状となって、「江戸前島」と呼ばれていました。

徳川幕府は、この日比谷入江を埋め立てました。埋立地の多くは町人地となりました。埋め立てと同時に運河が整備されました。運河は、城の堀とも通じ、江戸城の石垣は、伊豆半島や房総半島から海路、そして運河により搬入されました。

kanei.jpg寛永期の江戸

写真は、寛永期(1624〜1628年)の江戸を描いたものです。家光将軍の時代です。江戸は日本橋を基点とした5街道とともに、海洋都市としての海運も整備されました。家光の時代の江戸城は外掘まで完成し、それに連絡する運河も整備されました。

江戸の都市構造を見ると、寛永期までは、武家地は堀の中(およそ現在の千代田区と中央区)に配置されました。ところが、明暦の大火(1657)によって江戸城の本丸をはじめ江戸の6割が消失したために、密集による延焼を避けるために、堀の内側にあった大名屋敷や旗本屋敷の移転が進められ、その結果外堀の外側、および隅田川対岸の本所・深川まで武家地が拡大しました。

大名屋敷や旗本屋敷の移転と併行して、寺社の外堀外への移転も進めれ、浅草・谷中・四谷・赤坂・芝・三田・品川などに寺町が成立しました。これらは武家地を取り囲むように配置されましたが、後に江戸市民の遊楽地ともなっていきます。

明暦の大火以後、江戸は拡大しましたが、都市としての範囲、すなわち江戸町奉行の管轄の範囲は、日本橋から二里(8km)から二里半(10km)の範囲内で、大人が往復日帰りの距離で、品川宿(東海道)、千住宿(日光、奥州街道)、板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)が玄関口でした。

さて江戸城は、現在皇居となっています。皇居は、本来の植生を知る貴重な場所でもあります。植物学者であった昭和天皇や日本を代表する植物学者が著した生物学御研究所編「皇居の植物」には、野生のものと栽培品が区別されています。もちろん両方のものも多くあります。

同書の植生の考察では、「自然の状態ではスダジイ・タブノキ・アカガシなどの常緑広葉樹が優占するシイータブ帯に属している」としています(p11)。

この照葉樹林帯を構成するものとしては、他に、クスノキ、アラカシ、ヤブニッケイ、イヌビワ、シロダモ、ヤブツバキ、ヒサカキがあります。

一方で、関東平野の内陸で優占するケヤキとシラカシ、イロハモミジも多く自生しています。

したがって洪積台地である武蔵野台の先端に立地する旧江戸城の皇居は、沿岸性照葉樹林帯と夏緑落葉樹林帯(潜在的植生から内陸性照葉樹林帯とする学説もある)の境に位置するものと、私は考えます。