江戸・東京編
関東平野は、約13万年前の下末吉海進と河川侵食によって数段の基盤に火山灰が堆積した「洪積台地」と一万年以降に堆積した「沖積平野(低地)」に大別されます。洪積台地の厚い火山灰(ローム層)は海蝕され、沖積平野の境には、明瞭な崖があります。JR山手線鶯谷駅から上野駅にかけて北側に見える崖です。
今から約6000年前の縄文時代前期には、地球温暖化に伴って海水が上がり、沖積平野の多くは海面下となりました。洪積台地と沖積平野の境の崖には、多くの縄文貝塚が形成されましたが、この貝塚は浦和や大宮あたりでも発見されていて、関東平野の奥深くまで、海であったことが確認されています。
さて東京湾の最奥は、利根川支流の江戸川、荒川支流の隅田川、多摩川が入り組んだ低湿地でした。なお荒川は現在の墨田川に流れていましたが、大正時代に、洪水対策として、現在の位置に付け替えられました。
この低湿地が歴史に登場するのは意外と古く、養老5年(721)の正倉院文書には「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」が残されています。「甲和」(江戸川区小岩)、「嶋俣」(葛飾区柴又)の地名が記されていて、「嶋俣」には小(こ)刀良(とら)という男性と佐久良(さくら)売(め)という女性の名が見られることから、元祖「フーテンの寅さん」との奇遇がしばしば本で紹介されています。
中世は秩父党平氏から出た江戸氏がこの地帯を治めました。康正二年(1456)、太田道灌が、洪積台地である武蔵野台地の先端、現在の皇居の位置に江戸城を築きました。
室町後期のこの地方は、小田原を拠点とした後北条氏の支配下となり、江戸城も後北条氏の1支城として機能しました。後北条氏は、里見氏が支配した安房国(房総半島南部)を除く、江戸湾と相模湾の沿岸地帯を支配しました。