足尾銅山は、1610年から1973年まで創業した日本一の銅産出量だった。地質的には大規模な火砕流による流紋岩・デイサイトである。備前楯山と呼ばれる山が銅山である。
廃坑後45年経過しているが、精錬所から排出された亜硫酸ガスによって植生が死滅し、現在も回復していない。リョウブやヤシャブシが重金属イオンに対して抵抗があるようで、現在これらの数種類が自生している。
本山には、鉱山事務所、労組事務所、学校、銭湯、神社などがあって、多くの炭鉱関係者と家族が生活していた。
渡良瀬川には、銅山からカドミウムが流入して、周辺住民が被害を受けた歴史がある。それを公にしたのが、田中正造翁(1841~1913)で、正造翁は生涯を鉱毒被害者の救済に尽くした。