新古今和歌集は、後鳥羽上皇の院宣によって、藤原定家ら6人が編纂した。編纂時期は1201年から1210年。この時代の歌人をはじめ、万葉集などそれまでの歌集に漏れたものも収録している。
紅葉の歌は、初紅葉から散る紅葉へと進む。
高倉院御歌 薄霧の たちまふ山の もみぢ葉は さやかなれど それと見えけり524 薄霧が立ち舞う山の紅葉は鮮明には見えないが、紅葉とわかることだ。
藤原輔尹朝臣 大井川に出かけて紅葉を見て詠んだ。 思ふこと なくてぞ見ましも もみぢ葉を 嵐の山の ふもとならずは528 何のきがかりもなく見ることだろうか、この紅葉を。もし嵐という名の嵐の山の麓でないならば。 (地名)大堰川、嵐山
嵯峨天皇(786~842)が、833年嵯峨離宮(現大覚寺)と大沢池を造営してから、皇族や貴族が嵐山の桜や紅葉を見物するようになった。
俊頼朝臣 障子絵に、荒れたる宿にモミジが散っているのを見て詠んだ ふるさとは 散るもみぢ葉に うづもれて 軒のしのぶに 秋風ぞ吹く533 昔住んでいた家は散る紅葉に埋もれ、軒のしのぶ草に昔をしのべとばかりひとり秋風が吹いている。天龍寺塔頭宝厳院の門のシノブ
前大納言公任 うちむれて 散るもみぢ葉を 尋ぬれば 山路よりこそ 秋はゆきにけれ546 皆と連れ立って散る紅葉を探しに行くと、実はこの山路を通って秋は過ぎ去ったのが分かった。
グループで連れ立っての紅葉狩りもこの頃から流行ったようだ。
以下は読まなくて良いです。
新古今和歌集巻第四 秋歌上
藤原定家 見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ363 見渡すと花も紅葉もここにはない。海辺の苫屋の遊ぶ秋の夕暮れ四
新古今和歌集巻第五 秋歌下
藤原家隆 下紅葉 かちつる山の 夕しぐれぬれてや ひとり鹿のなくらん437 下葉の紅葉が散るかと見れば、時雨のそそぐ夕暮れの山。妻恋う鹿は鳴いているのだろうか。
中務卿具平親王 いつのまにか もみぢしぬらん 山桜きのふか 花のちるをおしみし523 いつのまにか紅葉したのであろうか山桜は、昨日花の散るのを惜しんだばかりだというのに。
高倉院御歌 薄霧の たちまふ山の もみぢ葉は さやかなれど それと見えけり524 薄霧が立ち舞う山の紅葉は鮮明には見えないが、紅葉とわかることだ。
藤原輔尹朝臣 大井川に出かけて紅葉を見て詠んだ。 思ふこと なくてぞ見ましも もみぢ葉を 嵐の山の ふもとならずは528 何のきがかりもなく見ることだろうか、この紅葉を。もし嵐という名の嵐の山の麓でないならば。 (地名)大堰川、嵐山
宮内卿 立田山 あらしや峰によ はるらんえわたらぬ 水も錦もたえけり530 立田山は、峰に吹く風が弱まったのであろうか。人の渡らない流れも途中で錦が切れているよ。
摂政太政大臣 ははそ原 しづくも色や かはるらん 森のした草 秋ふけにけり531 柞原では滴る雫までも紅葉の色に染まっていることだろうか。ここ大荒木の森の下草も秋の景色が深まったことだ。
俊頼朝臣 障子絵に、荒れたる宿にモミジが散っているのを見て詠んだ ふるさとは 散るもみぢ葉に うづもれて 軒のしのぶに 秋風ぞ吹く533 昔住んでいた家は散る紅葉に埋もれ、軒のしのぶ草に昔をしのべとばかりひとり秋風が吹いている。
春宮大夫公継 もみぢ葉の 色にまかせて ときは木も 風にうつろふ 秋の山かな536 紅葉の色の通りに、常盤木も風のために色変わりする秋の山よ。
二条院讃岐 散りかかる もみぢの色は ふかけれど わたればにごる 山河の水540 散りかかる奥山の紅葉の色は深いが、渡ればたちまち濁る山河の流れを
権中納言公経 もみぢ葉を さこそ嵐のはら ふらめこの山本も 雨とふるなり543 さすがに嵐の山では紅葉をそんなに嵐が吹き払うことでしょうが、水がないといわれるこの水無瀬の山麓も雨のように降って、激しく涙を誘うことです。
権中納言兼宗 ゆく秋の 形見なるべき もみぢ葉は あすは時雨と ふりやまがはん545 暮れていく秋の形見のであるはずの美しい紅葉は明日になれば散って、降る時雨とまちがうことであろう。
前大納言公任 うちむれて 散るもみぢ葉を 尋ぬれば 山路よりこそ 秋はゆきにけれ546 皆と連れ立って散る紅葉を探しに行くと、実はこの山路を通って秋は過ぎ去ったのが分かった。
訳文は、esdiscover.jpから抜粋した。