訳文は、esdiscover.jpから抜粋した。

第10段

家構えは自分の身分に似合っているものが望ましい。家は無常の世では、一時的な仮の宿ではあるが,風情ある家の庭は、流行を追っておらず、華やかでもないけれど、木立は程よく古びており、手を入れていない庭は自由に生い茂っている。

庭の植木・植物まで意図的に良く見えるように植え込んでしまうと、見苦しくなってしまい寂しいものだ。

第19段

季節の移り変わりこそ、物事にしみじみとした趣きがあるものだ。

『物事の趣きの深さは秋こそ優れている』と人々は言うけれど、それは確かにそうだが、いま一層心を浮き立たせる季節は、春の景色である。鳥の声も事のほか春めいてきて、のどかな日の光に、垣根の草も萌えいずる時期から、やや春は深まり、霞がかってぼんやりとし、桜の花もようやく色づき始める。ちょうど、雨風が続いて、心が休まる暇もなく桜の花の季節が終わってしまう。桜が青葉になっていくまで、ただすべて、花のことのみに心を悩ませられるものだ。花橘は名前こそ桜に負けてはいないが、梅の匂いのほうが思い出されてくる。昔の事を振り返れば、恋しい気持ちになってくるが、山吹の清らかさ、藤のはっきりしない趣き、すべてが捨てがたいものばかりである。

さて、冬枯れの景色というのも、秋に少しも劣らないものだ。水辺の草に紅葉は散り落ちており、霜がとても白く降りている朝には、庭の小川から湯気立つのが興味深い。年も暮れて、人々が急ぎ合っている時期には、また何となくしみじみとした気持ちになる。もの寂しいと決め込んで見る人もない月は、寒々として澄んでいる。20日あたりの空というのは、心細さ・寂しさを感じるものである。

第21段

月・花は言うまでもないが、風も、人の心を興趣へと揺り動かすものである。岩に当たって砕ける清く流れる水の景色は、季節を問わずに素晴らしい。

第43段

晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。

第44段

思いのままに生い茂った秋の草木は露に濡れており、虫の声は死者を悼むような鳴き声である。庭では遣水の音がのどかに響いている。ここの雲は、都よりも速く流れているようだ。雲の流れが速いので月が見えたり隠れたりしており、今の天気は晴れとも曇りとも定めがたい趣きのある感じである。

第道に慣れて精通している者)は、素晴らしいものである

第55段

家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。

(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。室内の小さなものを見る時には、扉を押し上げて開く窓(蔀)より、両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、(当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かのときに色々と役に立って良いと、人々が話し合っていたよ。

つれづれ種下

第137段

桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋にこもって、春の行方を知らないでいるのも情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に『花見に参ったのに、早くも散り過ぎていて』とか、『支障があって、花を見ることができず』などと書くのは、『花を見て』と言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を知らない人は、『この枝も、あの枝も散りに散っていて、すでに見所がない』なんて言ってしまうものだ。

あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものなのだ。男女の情趣というのも、いちずに逢って抱き合うことだけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。こういったことも、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって漸く持っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、とてもその月の青さが心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光がきらめくのが身に沁みてきて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。

月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ。それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るということができない。

第139段

庭にあったら良い木は、松と桜である。松は、五葉もよい。桜は、一重がよい。八重桜は、奈良の都にだけ咲いていたのだが、最近はどこでも良く見かけるようになった。京の吉野や左近の桜は、みんな一重桜である。八重桜は異様なもので、ごちゃごちゃとしてひねくれた印象がある。庭には植えなくても良い。遅咲きの桜は興ざめであり、虫がつきやすいというのも厄介である。梅は、白や薄紅である。一重の梅は早く咲くが、紅梅の匂いも風情があり、みんな素晴らしい。遅咲きの梅は、桜と咲き合ってしまうので、人の記憶には残りにくい。桜に圧倒されて、枝に縮んで咲いてるような感じで、何だか心配になってしまう。

滝桜子孫木、一重花の枝垂桜

柳も、また趣きがあるものだ。春の若楓(わかかえで)というのは、すべての花や紅葉にも勝るもので非常に深い趣きがある。橘や桂は、どちらも古びた大木のほうが良い。

仲田種苗園鷹ノ巣農場の春モミジ

草は、山吹・藤・杜若(かきつばた)・撫子(なでしこ)が良い。池には、蓮。秋の草なら、荻(おぎ)・薄(すすき)・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑(キク科シオン)・吾木香(われもこう)・刈萱(かるがやメカルガヤ)・りんどう・菊がある。黄色の菊も良い。夏なら蔦(ナツヅタ)・葛・朝顔である。いずれにしても、あまり草丈が高いものではなく、ささやかな草木で垣根に無駄に繁らないのが良いのだこれ以外の、世にも珍しいもの、舶来の中国(唐)の草花のようなものなどは、花も見慣れておらず懐かしさを覚えないのである。東京都庭園美術館の野の花マット

 

以下は本題から外れるが、後嵯峨天皇(1220~1272)が、嵯峨野に建造した離宮亀山殿に関わる造園的な記述なので紹介します。この池泉は現在天龍寺に継承されている。

51段

後嵯峨上皇が、亀山殿(仙洞院)の庭の池に引く水を、大井川から引こうとして、大井の百姓に命じて水車を作らせた。百姓たちに労賃となる銭(おあし)を沢山与えて、数日で水車の本体を作り上げさせたが、大井川に水車を設置してみたところ、まったく回らない。何とか直そうとしてみたが、結局水車は回ることがなく、無意味にそこに立てかけられたままであった。

そこで、宇治の里人たちを召しだして、水車をこしらえさせてみると、簡単に水車を組みあげて設置したのだが、思いのままに水車は良く回った。水は亀山殿の庭の池にスムーズに流れるようになり、その水車作りの技術は素晴らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

『徒然草』の19段~21段の現代語訳 (esdiscovery.jp)