386382290779669.jpg386382332094209.jpg三春もみじ山の植栽

石川町の人口は17,264人、三春町が17,631人とほぼ同じ。両町はいろんな意味で良く似ている。

共に戦国時代に町がつくられた。石川氏の三芦城、田村氏の三春城を中心に、戦略的な観点から狭い谷に城下町を形成した。

石川市街地は江戸時代の句に桜谷と詠まれ、三春にも桜谷の地名がある。

明治時代の自由民権運動では、石川と三春は歴史を共有する。

明治8年(1875)、三春出身の河野広中が、石川区長(町長)となり、石陽社を設立。明治10年(1877)、広中は三春に帰郷して、三師社を結成した。石川と三春は、自由民権運動の東日本の拠点となっていく。

2つの政治結社の特色は、石陽館と(三春)正道館という学塾をもち、青少年を教育したことである。

石陽館には近隣の青少年が200名近く学んだ。この精神は石川義塾(現在の学法石川高校)に継承され、多くの人材を輩出した。138年前の石陽館教育が今に生きている。

私は三春町歴史民俗資料館に勤務していた時、若い自由民権運動家たちの写真を見た(たしか10人前後)。眼が爛々とし、少しやんちゃな面構えだが、志を強く感じた。

人材が群生する条件は、「ある特定の時期と地域で強烈な危機意識を共有する」ことである(原口泉『理念と経営』88号)。明治の石川と三春には人材が群生した。

私たちは、福島第1原発爆発事故によって、未曽有の危機にある。

また厚生労働省の人口推計によれば、20年後2035年の石川町の人口は12,679人(4585人減)、三春町が13,429人(4202人減)と激減する。

この推計を甘受するのか、それとも地域の魅力を高める努力をして、この減少率を低くするのかは、福島県の各市町村の課題であろう。

現在と未来に対する危機意識をどれだけ強く待つか、そしてそれを多くの仲間と共有できるかが、地域発展と衰退の岐路となる。

さて本年3月30日、三春ダムに隣接する「もみじ山」に200数本のモミジが植栽された。

「何かに行き詰ったら木を植えるのが私の政治信条です」「滝桜で名高い三春に秋をつくりたい」という鈴木義孝町長に共鳴して、私は全体計画や材料の一部提供などでお手伝いしている。

当日の参加者は約70人。役場職員、議員、地域住民、富岡町民など、全員がボランティアであった。

石川町民の誇りとなっている今出川沿いの桜並木は、昭和26年、町の未来を築こうと、役場職員有志が植栽したのが始まりである。