縄文時代からの植物文化

nono050801.jpgnono050723.jpg武蔵野を再現するアゼターフ(左:050723、右050803)

関東平野の台地は、数段の段丘面からできている。段丘は13万年前の下末吉期の海進と海退による侵食と火山灰の堆積によって形成された。段丘は高位のものから多摩段丘・下末吉段丘・武蔵野段丘・立川段丘に大別される。高位の段丘ほど年代が古い。また最高位の多摩段丘は多摩丘陵と呼ばれ、侵食が進んで、平坦面を残さない(羽鳥謙三「関東ローム層と関東平野」)。

多摩丘陵には1960年代以降、ニュータウン建設に伴う発掘調査が行われて、縄文時代の遺跡が多数発見された。

 縄文時代には、煮炊き具である土器や調理具である石皿と磨石の発明によって、食料としての植物利用が飛躍的に発展した。植物利用が効率的になった結果、定住が可能となった。

定住的な生活は、周辺環境にも影響を及ぼした。住居の周辺のもりがを切り開いた結果、クリやドングリを産するコナラ・クヌギなどが生育する二次林が形成され、林縁にはワラビ、ゼンマイ、ヤマイモなどの有用植物が生育できる環境が整った。

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sannai-1.jpgsannai-4.jpg青森県三内丸山遺跡(縄文時代中期:4000年前)

goshono-1.jpggoshono-2.jpggoshono-3.jpg岩手県一戸町御所野遺跡(縄文時代中期 4000年前)

青森県三内丸山遺跡など、近年の縄文遺跡の発掘調査は、従来の縄文時代観を一変させた。

それは木造建築の多様性と規模の大きさである。幹周1mを越すクリ材を立てた巨大なモニュメント、長大な竪穴住居址、高床式倉庫など、高度な建築技術が駆使されている。

sibamune-1.jpgsibamune-2.jpg福島県桧枝岐村「国指定歌舞伎舞台」の芝棟・オニユリ

建築史的に、あるいは今日の屋上緑化の先駆として重要なのが、三内丸山遺跡や御所野遺跡の復元住居に見られる「芝棟」である。これは茅葺き屋根の頂部に野草密度が濃い自然のターフを載せて雨漏りを防ぐもので、第二次世界大戦前後には東日本に普遍的に見られたもので、それが4000年前に遡るということは、住における植物利用の伝統として注目される。

芝棟には食用や鑑賞を兼ねてユリ科植物やアヤメ科などを補植する場合が多い。元禄十年(1697)に刊行された『農業全書』には、飢饉に備えて、屋根(芝棟)にユリ科植物を植えることを奨励している。

万延元年(1860)、日本を訪れたイギリスの園芸植物家ロバート・フォーチュンは、神奈川の宿場風景について、「(農家)の屋根の背に、ほとんど例外なく、イチハツが生えていた」と報告している(『幕末日本探訪記』p74)。

さて、日本における稲作の開始年代については、近年歴博研究グループの問題提起によって議論が展開されている。

この研究グループによれば、関東地方は自然の食料資源が豊富であったために、日本海側沿いに伝播した弥生文化の受容が、東北地方より遅れたという。

この問題提起については、今後他の考古学者からの議論も出されるであろうが、自然の食料資源の重要性を評価してるという点では納得がいくものである。

本が手元に無いので定かではないが、渡辺誠名古屋大学名誉教授は『縄文の植物食』という本の中で、縄文時代の植物食の重要性を指摘するとともに(それまでは縄文時人は鳥獣を追って生活しているイメージがあった)、稲作導入後も植物食の重要性は明治時代までは変わらなかったと指摘しており、この説は現在では定説となっている。

米沢藩第7代藩主上杉鷹山公の命によって編纂された『飯糧集』(1783年)と『かてもの』(1802年)には、あわせて50科144種の食料となる植物が記されている。

私たちが現在食べているワラビやゼンマイなどの山菜はそのほんの一部で、縄文時代以来の自然植物を利用した食文化の延長にある。

soumoku.jpg山形県置賜地方の「草木塔」(江戸時代)

さて山形県南部の置腸地方では、江戸時代に「草木(供養)塔」が建てられた。これは草木にも魂が宿ると考え、木を切り倒す時に、その魂を供養するものである。精神的なものなので、確証はないが、縄文時代より続いた自然崇拝の一つの現われだと、私は注目している。