阿武隈川上流の江戸時代の舟運は面白い。
しかも私の自宅兼事務所から西に約500mの所で、阿武隈川に社川が合流し、古代からの舟運の要衝であったと推定されるが、江戸時代には対岸(現在の矢吹町明新)に庄屋円谷家が築いた「明岡河岸」があり、塩や米を商い、会津藩にも納めたという。以下「矢吹町史」からの学び。
嘉永3(1850)年、矢吹町大和久村庄屋芳賀市右衛門、同じく明岡村庄屋円谷茂惣平と父茂平、中島村川原田村の問屋佐藤良平、三春町商人藤田逸作が、塙代官所に舟運事業を願い出でた。安政2(1855)年に許可が出た。芳賀と円谷は、多角経営的な商いをしており、円谷は常陸の平潟から会津までの米やその他の物資を扱う問屋であった。
舟運のコースは、常陸街道と阿武隈川の合流点である中島村川原田(現在の「ひたちはし」)で、船に積み込み、矢吹町の明岡河岸、須賀川市中宿、郡山市鬼生田の4か所の河岸を設け、それぞれの蔵に荷揚げした。
川原田河岸が想定される「ひたちはし」付近
「明岡河岸」:地下深くまで根を張る黒花崗岩の節理層を河川が貫通しているために、増水によっても河床は大きく変化せず、当時の面影を伝える。
川路中最大の難所は、玉川村と須賀川市にある乙字が滝で、ここの中央を掘削して、船を通した。当時の船は、十二駄積船(大船)が、長さ11m、幅1・5m、七駄積船(小船)が長さ7・5m幅1.2mであった。幕末までは繁盛したようであるが、明治時代になると陸運の整備や大手需要者である会津藩の崩壊により、舟運は衰退した。