伊豆半島の歴史の続きです。
戦国期の伊豆半島は、小田原を拠点とした後北条氏に治められました。
後北条氏は、鎌倉御家人の三浦氏の配下にあった三崎水軍(三崎十人衆)を吸収したと考えられています。また伊豆半島においては、独自の伊豆水軍を組織して、下田城や長浜城(沼津市)を拠点として活動しました。
後北条氏は、これらの水軍力を背景として、伊豆・相模・武蔵・上総など江戸湾域のほとんどを支配しましたが、安房国の里見氏は激しく抵抗しました。
里見水軍は、海路を渡って、後北条氏支配の三浦半島をたびたび攻撃しています。1560年(弘治二)の三崎の戦いでは、暴風雨によって北条水軍が自滅したこともあって、里見水軍が勝利しています。また1567年(永禄十)、現在の千葉県君津市で行われた三船山合戦では、北条水軍が房総半島に渡海しましたが、里見氏が後北条氏に水陸両面の戦いで勝利しています。浦賀水道を挟んで、房総の里見水軍と三浦の北条水軍の交戦は活発でした。
下田が、日本史上もっとも脚光を浴びるのが、幕末です。
1856年(安政三)、前年に初代駐日総領事に任ぜられたハリスが、下田に来航し、玉泉寺に総領事館を構えました。
1858年(安政五)、ハリスと幕府によって、日米修好通商条約が締結されるまでの2年間は、下田が幕末の外交交渉の舞台でした。