伊豆国は、延喜式によると、国に納める特産物として、「堅魚(かつお)」、あるいは「堅魚煎汁(かつおを煮詰めた調味料)」が記されています。
江戸を中心とした海産物の流通である「五十葉(いさば)」には、伊東の特産品として、鰹節と干物があげられています。
外洋性魚であるカツオは、古代から江戸に到るまで、伊豆半島の特産でした。
さて1160年(平治二)、源頼朝は、伊豆国田方郡蛭ヶ島に流されました。しかし頼朝は、この地方の領主であった北条氏の娘政子と結婚したことにより、北条氏の援助を受け、力をつけました。
1180年(治承六)、頼朝は反平氏の挙兵をしましたが、「石橋山の合戦」に破れました。頼朝は、土肥実平の助けにより、土肥氏の本拠である伊豆半島真鶴から、海路で房総半島に渡りました。
房総半島では、千葉氏や上総介氏を味方につけ、勢力を挽回して、この年の暮れには鎌倉に関東南部軍事政権を樹立しています。
さて、頼朝を救った土肥氏ですが、その後は備前・備中・備後の総追捕師として、平氏討伐に活躍しました。実平の子遠平は、小早川氏を称し、安芸国を治めました。
小早川氏は、水軍を擁し、毛利氏の中国地方支配の一翼を担いました。以下のような学説があるかどうかわかりませんが、小早川氏の水軍は、伊豆半島の土肥氏に源流がありそうです。「土肥氏水軍」が日常的に航海していた伊豆の真鶴から房総半島のルートを使って、頼朝は九死に一生を得たのではないかというのが、私の推論です。