tateyama-1.jpgtateyama-2.jpg 房総半島館山湾(2007年4月28日)

前項で紹介したように、縄文時代から古墳時代の遺跡を見ると、館山湾の人々は、近場の岩礁でのアワビなどの採取だけでなく、外洋漁業も積極的に行っています。

 安房国の国分寺は館山市、国府は隣の三芳にありました。奈良時代の平城京出土木簡には安房国から貢進されたアワビが記載されています。これも縄文時代からの漁業の蓄積です。

1180年(治承四)8月、相模国石橋山の戦において、源頼朝は平氏方の大庭景親に敗れ、伊豆半島の真鶴から房総の安房国に、海路で渡りました。およそ70kmです。房総から三浦半島は最短で10kmですが、房総から伊豆半島も意外と近く、海上交通による交易ルートがあったものと推定されます。

戦国時代、里見氏が館山に居城を構え、安房国を支配しました。里見氏は、千葉氏や後北条氏と争いながら、勢力を確保しましたが、江戸開幕直後の政変に巻き込まれる形で衰退しました。この間のいきさつは、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」により、物語化されて、庶民にひろく親しまれました。私も、昭和40年代のNHKの人形劇で見ました。

江戸時代の安房国は、1万石程度の小藩分立となりました。幕藩体制の経済基盤は、米による石高制であったために、耕地が少ない安房国には小藩が置かれました。

しかし、安房国の実体経済は漁業を主体とする半農半漁であり、村役人である名主よりも、商業資本化家である網元の力が強かったのではないかと推定されます。