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(横須賀市観音崎、写真はクリックしてアップでご覧ください)            写真1:まとまった照葉樹林帯 写真2:対岸の房総半島 写真4:浜辺のエノキ

観音崎は、房総半島の富津岬とともに、浦賀水道のもっとも狭い水域を形成し、東京湾の入り口となっています。

幕末は会津藩が観音崎を警護し、明治から昭和に到るまで海防の基地でした。

「日本奥地紀行」を書いたイギリスの女性探検家イザベラ・バードは、1878年5月21日、キング岬(南房総市野島岬)、観音崎とサラトガ岬(富津崎)の間を通り、ペリー島(横須賀市猿島)とウェブスター島(横浜市夏島)沖を経て、ミッシシッピー湾(横浜市磯子区根岸湾)に到着しました。この時の、風景を以下のように描いています。

「湾は狭まり、森林でおおわれた山々、段々畑の谷間、美しい灰色の村落、静かな浜辺の生活状態、青白くかすんだ背後の山脈が、だんだんはっきりと見えてきた」(日本奥地紀行)

イザベラ・バードが描いたような東京湾岸の原風景は、今やコンクリートに埋め尽くされています。東京湾岸を人間性がある空間に再生するためには、三浦半島をはじめとする環東京湾に残る生態系をネットワークしたり、またコンクリートの上に自然を回復するテクノロジーを開発することで、環東京湾全体の環境力を高める必要があります。