原発から20キロメートル圏内の町村8自治体が役場機能ごと集団移転することになった。双葉町は埼玉県加須市、大熊町は会津若松、楢葉町は会津美里町に移転する。

早期の地元復帰が望まれるが、原発の放射能汚染が終息せず、また原発周辺の土壌汚染の解消には時間がかかるので、移転先での生活は長期化しそうである。平成版「国替え」にならぬことを切に望む。

私は「地域らしさ」について、「歴史文化」「自然」「地場産業」の3つを基本要素と考えている。原発周辺の市町村は、地震と津波で自然景観にダメージを受け、地場産業は地震津波と原発によって壊滅、さらに遠隔地への避難が長期化すれば固有の歴史文化すら失われかねない。

口承から地域や時代の文化を解明するのが民俗学である。ぜひ避難先で、地域ごとの聞き取りを行って、地域文化をデータベース化してほしい。大熊町と楢葉町の移転先である会津若松市の県立博物館には民俗学の優れた学芸員がいるが、民俗学会総力をあげての取り組みが必要であろう。インフラはもちろんのこと、このような地域らしさの保存と活用においても県や国、そして国民のの支援を望みたい。また自分たちの生活や文化を話すことによって、高齢者をはじめとする避難者の励みとなり、再建への活力となるであろう。

さて私は最近ある地域の歴史について考える機会があった。赤坂氏一族の歴史である。赤坂氏は福島県東白川郡鮫川村赤坂中野を本拠地とした戦国武将であり、徳川幕府の国替えにより、主君の佐竹氏とともに秋田に移った。赤坂氏の居館である「赤坂舘」は秀吉の奥州仕置により破却されたが、400年を経た今、村により環境整備が行われている。以下に赤坂氏の足跡を追う。

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赤坂氏一族の歴史は、一言でいえば知略に富んでいる。赤坂氏の本拠地鮫川村の現在の人口4000人である。グーグルの航空写真でみれば山と谷であり、稲作を行う耕作地は少ない。この地域の戦国時代は、北東に石川氏、東に岩城氏、南に佐竹氏、西に白河結城氏というように、四方を有力武将に囲まれていた。耕作地は少ないが、物流と軍事からみれば、赤坂氏の本拠地は、佐竹氏の支配地である常陸北部と石川氏(石川郡)や白河結城氏の支配地(東白川郡)を結ぶルートの要衝に位置する。

赤坂氏は石川氏の出とされるが、後に白河結城氏、佐竹氏と主従関係を変えて、戦国時代を生き抜いた。知略によって時代を生き抜いた信州上田の真田氏を彷彿とさせる。

赤坂氏関係が歴史に最初に登場するのは明徳五(1394)年、「石河庄蒲田内三分壱 赤坂村」。石川庄蒲田の3分の1が赤坂村。蒲田は古殿町鎌田に所在し、石川一族の蒲田氏が支配していた。赤坂氏は蒲田氏の弟分となろう。

文安六(1449)年、白河直朝が蒲田城を攻め破却。これによって赤坂氏は蒲田まで支配領域を拡大し、従来の常陸北部からのルートに加えて、岩城氏が支配する勿来地方と福島県南部へのルートを掌握したものと考えられる。

文明十六(1484)年、赤坂氏は、同じ石川一族の大寺氏と小高氏とともに、白河政朝に属する。主従関係が固定されるのは江戸時代からで、戦国時代はあくまで契約関係であった。江戸時代の幕藩体制を維持するために作られた道徳観である「忠義」で歴史的評価をしてはいけない。領地を守るために、どの有力武将と契約を結ぶかは知略の要である。

永禄三(1560)年、赤坂政光が、常陸の佐竹義昭に属する。天正十七(1589)年、佐竹方赤坂朝光が、石川昭光の攻撃を撃退。なお余談ながら、朝光の名は、かっての主君であった石川氏の「光」と白河氏の「朝」の両方を付けており、領地を守るために主従関係を変えざる得なかった赤坂氏の苦悩を表わしているように思えてならない。

天正十八(1590)年、秀吉の奥州仕置により、赤坂氏の居館「赤坂舘」が破却。赤坂氏は常陸に移ったものと推定される。

慶長七(1602)年、徳川幕府の命により、佐竹氏は、秋田・久保田(現在の秋田市)に国替え。赤坂朝光は、米内沢(秋田県森吉町)に配属された。秋田久保田藩での赤坂氏の家格は、3番目の「廻り座」。譜代世臣、勲功将士、門閥分家で構成され、この中から家老や寺社奉行などの藩重職に登用される。かっての主君である白河結城氏と同格であり、譜代家臣ではない赤坂氏にとっては厚遇といえる。

さて、赤坂氏の居館である赤坂舘は破却後400年以上経過するが、専門家や一部の愛好家以外には忘れられた存在であった。ところが、平成十八(2006)年、村が環境整備を行うことになり、鬱蒼とした杉林が伐採された結果、舘の全容を知ることができるようになった。

まずは赤坂舘は鮫川が二股に分岐する位置にあり、また舘内に湧水をもつので、水利がよく、長期の籠城が可能である。史実にも天正十七年、石川昭光を撃退している。また規模が約10ヘクタールと大きい。調査が進んでいる三春田村氏配下の四十八舘の標準的な規模は1ヘクタールから数ヘクタールである。また本丸をはじめ、各種の建築物を配置した曲輪、防御施設である土塁などの遺構が非常によく残っている。

赤坂舘の規模と遺構から考察されることは、赤坂氏の実像は狭小な支配地から想定される弱小な舘主ではなく、かなりの規模の武士団をもった雄将である。その背景としては、福島県南部での勢力図に限定した視野を北関東から東北南部にまで広げる必要があろう。すなわちこの地域はいずれも60万石規模をもつ伊達氏と佐竹氏が拮抗し、赤坂氏のかっての主君であった石川氏は伊達氏に、白河氏は佐竹氏の影響下にあった。赤坂舘は佐竹氏の支配地である常陸北部から石川氏と白河氏の支配地を結ぶルートの要衝にあり、伊達方の石川氏に対する前進基地として、あるいは味方の白河氏に対する補給基地としての軍事的価値は高い。赤坂舘は伊達勢に対する佐竹氏の前進基地として、大規模かつ強固に整備されたものと考えられる。この当時の勲功によって、赤坂氏は秋田に国替えになっても、藩の家格としては三番目、譜代以外の家臣としては最高位の「廻り組」として厚遇されたものと考えられる。

文責 仲田茂司

asaka11.jpg赤坂舘遠景

asaka21.jpg27-21.jpg本丸に残る土塁、今回の大地震で一部崩落。

asaka31.jpgasaka41.jpg曲輪の遺構が良好に残る

asaka51.jpg鮫川支流と舘沢の湧水