1500~1100万年前、新生代新第3紀は温暖で、福島県只見町布沢(ふざわ)は海であった。布沢層と呼ばれる凝灰岩や泥岩地層の中から、沿岸性照葉樹林帯の植物や貝が発見されている。現植生はミズナラやヤマモミジなどの日本海側植生である。
奥会津は、江戸時代は南山御蔵入と呼ばれて幕府の領地だったが、実質的には会津藩が支配した。1868(慶應4)年9月22日、戊辰戦争で会津藩が降伏、若松城が開城してからも、しばらくは南山御蔵入の農民たちは西軍と戦い、銀山街道の宿場であった布沢では加賀藩士が戦死、その墓は今でも地域住民に丁寧に守られている。
享保5年(1720)、幕府の過酷な年貢に対して、南山御蔵入の農民たちは一揆を起こした(南山御蔵入騒動)。要求の一部は認められたが、首謀者は斬首、布沢の茂左衛門もその一人であり、義民と呼ばれている。
布沢は、このような歴史を踏まえて民度が高い。江戸時代に沢水を引いて、灌漑用水路を整備した。時代ごとに改修しているが、例えばコンクリートの3面張りに改修しても集落内は川原石で景観的な工夫をしている。水路と道路が交差したところには個人が花壇を作り、個を超えた環境が形成されている。
昨年訪問した際に、地元住民に歳を聞かれたので還暦と答えたら、「ずいぶん若いな」と言われるほどの高齢地域であるが、集落が清潔で美しい。民力が醸し出す場の雰囲気がある。
昨年訪問した際に、地元住民に歳を聞かれたので還暦と答えたら、「ずいぶん若いな」と言われるほどの高齢地域であるが、集落が清潔で美しい。民力が醸し出す場の雰囲気がある。
かっての分校は民力で宿泊施設に再生された。また集落の雰囲気が引き寄せたのであろう、宇都宮大学が実習の地とし、JR東日本労働組合が古民家を買い取りリフォームして研修所として活用している。
地域資源の優劣ではなく、それを活かそうという住民の想いと行動が、人を引き寄せる。少子高齢化の極限までにいった奥会津の覚悟のあるむらづくりに学ぶことは多い。
仲田種苗園ブログ「限界を超える集落」2017年11月21日