古今和歌集は、10世紀の成立で、醍醐天皇の勅命により、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者となった。万葉集に選ばれなかった歌から撰者の時代のものが掲載されている。

貴族宅などでの歌会で詠まれたものが多いのか、文学としての完成度は高いが、リアリティが薄いと私は感じる。

またほとんどが落ち紅葉の場面を詠んでいて、寂しさとか哀しさがテーマとなっている。

そのうちで、情景が浮かぶ4首をあげよう。

よみ人しらず                                                            奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿のこゑ きく時ぞ 秋はかなしき215                                          (奥山に、落ち紅葉を踏み分けて行き、鳴く鹿の声を聞く時にはさあ、秋は悲しいことだ。

万葉集にも似た歌があるので、その時代のものかもしれない。

福島県猪苗代町土津神社

凡河内躬恒                                                           池のほとりでモミジが散る様子を詠んだ                                                                                                 風吹けば おちつるもみぢば 水きよみちらぬ 散らぬかげさえ 底にみえつつ304                 (風が吹くと散り落ちて行くモミジ葉は、水が澄んでいるので、その散りゆくモミジの影に加えて、枝から離れ散らないモミジの影までが、水底にちらちら見えていて)

福島県昭和村矢の原湿原

京都、常寂光寺

紀貫之                                                                  北山にモミジを折ろうとして行った時に詠んだ 見る人も なくてちりぬる 奥山のもみぢは 夜の錦なりけり297(見る人もないままに散ってしまう奥山のモミジは、なるほど夜の錦なのだな)

イロハモミジの自然植生(福島県鮫川村強滝)

素性                                                                        北山に茸狩りに行った時に詠んだ                                                     もみぢ葉は 袖にこきいれて 持ていでむなむ 秋は限りと見む人のため309                                  (モミジ葉は袖にしごき入れて持って帰ろう。秋はもう終わりだと思っているだろう人のために)

北山とはどこでしょうか。素直に京都市北区だとすれば、北区大宮釈迦谷付近は紅葉谷と呼ばれて、現在は庭園となっている。平安時代は栗栖野と呼ばれて淳和天皇(786~840)はじめとする皇室のお鷹狩り場であった。京都御所から紅葉谷までは6キロメートル、紅葉狩りには程よい距離だったかもしれない。

以下古今和歌集をモミジヂを紹介するが、読まなくて良いです。

古今和歌集巻第四 秋歌上

よみ人しらず                                                               天河 もみぢを橋に わたせばや たなばたつ女の 秋にしもまつ175                                                (天の川に散り敷いた紅葉を橋にかけるからだろうか、織女星は年ごとにその秋を特にまちこがれるのだ)

忠岑                                                                   久方の 月の桂も 秋はなお もみぢばや 照りまさるらむ194                                                             (月に生えるという桂の木も、やはり紅葉するので、月の光が一層輝きを増すのだろうか)

よみ人しらず                                                             もみぢ葉の 散りてつもれる わが宿に 誰を松虫 ここら鳴くらむ203                                    (もみじの葉の散り積もった淋しいわたくしの家で、誰を待って、人を「待つ」というあの「松虫」が盛んに鳴いているのだろうか)

よみ人しらず                                                            奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿のこゑ きく時ぞ 秋はかなしき215                                          (奥山に、落ち紅葉を踏み分けて行き、鳴く鹿の声を聞く時にはさあ、秋は悲しいことだ。

古今和歌集巻第五 秋歌下

紀淑望                                                                もみぢせぬ ときはの山は 吹風のをとにや 秋をききたわたるらむ251                                     (紅葉しない常緑樹の山は、吹く風の音で、秋の気配に耳を傾け続けているのだろうか)

よみ人しらず                                                               霧立て 雁ぞなくなる 片岡の朝の原は、もみぢしぬらむ252                                         (霧が立ちわたって、目には見えないが、雁がそら鳴いている。片岡のあしたの原は、今はもう紅葉していることだろう)

よみ人しらず                                                            ちはやぶる 神なび山の もみぢばに 思ひはかけじ うつろう物を254                                 (神々のいます甘南備山でも紅葉の美しさに思いをよせないでおこう、色変わりするものだなー)

在原元方                                                                 雨降れど つゆも漏らさじを かさとりの山は いかでかもみぢ初めけむ261                                    (雨が降ってもまったく漏らないだろうに、傘のような笠取山は、どうして雨のために紅葉し始めたのだろう)                         笠取山は京都府宇治市

忠岑                                                                 あめふれば かさとり山の もみぢ葉は 行かふ人の 袖さへぞ照る263                                  (傘のような笠取山の紅葉はもちろん、行きかう人の袖までが照り輝いている)

よみ人しらず                                                              散らねども かねてぞおしき もみぢ葉は 今は限りの色と 見つめれば264                                     (散ってはいないけれど、散る前からすでになんと惜しいことよ、モミジの葉は、今はもう最後の色と思っているので)

紀友則                                                             大和国に行ったときに佐保山に霧が立っているのを見て詠んだ。                                    誰がための 錦なればか 秋ぎりの山べを たちかくすらむ265                                       (誰がための紅葉の錦であるからか、秋の霧が佐保山を、たちわたって隠しているのだろうか)

よみ人しらず                                                             秋霧は けさはな立ちそ さほ山のははそのもみぢ よそにても見む266                                   (佐保山のモミジの色は薄いけれど、秋は深まってしまったことであるよ)                                         さほ山の ははそのもみぢちりぬべ み夜差へ見よと 照らす月かげ261                                                          (佐保山の色の薄い紅葉は散ってしまいそうだから、昼はもちろん夜まで見なさいと、照らしているこの月よ)

藤原関雄                                                               宮仕えの傍ら山里に籠って詠んだ                                                       奥山の 岩垣もみりぬべし 照る日のひかり みる時なくて282                               (奥山の険しい岩々のモミジが、きっと散ってしまうだろう。照り輝く太陽の光を見ないままに)

よみ人しらず                                                          竜田河 紅葉乱れて 流めり渡らば 錦中やたえなむ283                                         (竜田川は、モミジが乱れ流れているように見える。渡るならば、この紅葉錦が断ち切れてしまうだろうな)                      伝平城帝                                                                たつた河 もみぢ葉ながる 神なびの 三室の山に 時雨ふるらし                                     (竜田川は、モミジの葉が流れている。神奈備の三室山にしぐれが降っているからであろう) 三室山は斑鳩町、万葉集にも謡われる

よみ人しらず                                                             秋風に あへずちりぬるも もみぢばの行くゑさだめぬ 我ぞかなしき286                                  (秋風に耐えきれないで散ってしまうモミジ葉の行方が定まらない。そのように、行く末がどうになるかわからないわが身が悲しいことだな)

よみ人しらず                                                               あきはきぬ 紅葉は宿にふりしきぬ 道ふみわけて 訪ふ人はなし287                                     (秋が来た。紅葉は我が家の庭に散り敷いている。道を踏み分けて訪ね来る人はいない)

よみ人しらず                                                               踏みわけて 更にやとはむ もみぢばのふりかくしてし 道とみながら288                                   (踏み分けてわざわざ訪ねて行ったものでしょうか。モミジがこうも降るように落葉して隠し通している道なのだと見ながらも)

よみ人しらず                                                            秋の月 山辺さやかに 照らせるは 落つるもみぢの 数を見よとか288                                 (秋の月が山のあたりを清らかに照らしているのは、散り落ちるモミジ葉の数を見なさいということか)

素性                                                                 二条后の屏風に描かれた竜田川のモミジの流れを見て詠んだ                                         もみぢ葉の 流れてとまる みなとには 紅深き浪はたつらむ293                                          モミジの美しい葉が流れ流れて止まる水門には、深い紅色の波が立っているであろうか。

忠岑                                                                 神なびの 三室の山を 秋ゆかば 錦たちきる 心ちこそすれ296                                     (神奈備山の三室山を秋の紅葉の季節に通って行くと、錦の布を仕立てて着る気持ちが確かにすることだ)

貫之                                                                  北山にモミジを折ろうとして行った時に詠んだ 見る人も なくてちりぬる 奥山のもみぢは 夜の錦なりけり297(見る人もないままに散ってしまう奥山のモミジは、なるほど夜の錦なのだな)

坂上是息                                                             竜田川の畔で詠んだ                                                         もみぢ葉の ながれざりせば 河水の秋をば たれか知らまし302                                   (モミジ葉が流れないとすれば、竜田川の水の秋を誰がしるだろうか)

春道列樹                                                              滋賀の山越えで詠んだ                                                          山河に 風のかけたるしがらみは ながれもあへぬ もみぢなりけり303                                    (山間の川に風が架けていくシガラミと思ったのは、実が流れようとして流れられないで留まっているモミジであったことよ)

凡河内躬恒                                                           池のほとりでモミジが散る様子を詠んだ風吹けば 楽鶴もみぢ場は 水木夜道 散らぬ蔭佐へ 底に見え304                 (風が吹くと散り落ちて行くモミジ葉は、水が澄んでいるので、その散りゆくモミジの影に加えて、枝から離れ散らないモミジの影までが、水底にちらちら見えていて)

亭子院の屏風を見て詠んだ                                                        立ち止まり 見てをわたらむ モミジ葉は 雨と降るとも 水はまさらじ305                    (立ち止まってよく見てから渡りましょう。モミジ葉は雨のように降っても川の水は増えないでしょうから)

素性                                                                        北山に茸狩りに行った時に詠んだ                                                     もみぢ葉は 袖にこきいれて 持ていでむなむ 秋は限りと見む人のため309                                  (モミジ葉は袖にしごき入れて持って帰ろう。秋はもう終わりだと思っているだろう人のために)

貫之                                                                年ごとに もみぢ葉ながす たつた河みなとや 秋のとまりなるらん311                                   (来る年ごとにモミジ葉を流す竜田川は、その河口が秋の泊り場所なのだろうか)

訳文は、esdiscover.jpから抜粋した。